越前大野丸
魅せる城下町を創造する会
代表塗茂ひろ美
ご存じでしょうか、樺太(ロシア名サハリン)に大野藩の准領地があった事を。
本杏は絶版になっていた人島呂宏労「そろばん武士氾」を装いも新たに「越前大野九」と 題して令和に蘇らせたものです。
激動のこの時代に、視点を変えて読み返してみますと単なる時代小説ではない事に気づきます。内陸に位置する四万石足らずの小藩が、膨大な経費とリスクをかけて、なぜ未知の世界へ乗り出していったのでしょうか。その情熱は一体どこから涌き上がってきたのでしょうか。 (前編を読み進めていくと経緯がわかります)
日露戦争、第二次世界大戦を経て、世界の歴史にその後の樺太はどう位置づけられていった のでしょうか。(外務省のホ ムベージを参照)
ロシアによる理不尽なウクライナ軍事侵攻と、それに絡むサハリン1 · 2(地下資源開発)か らも目が離せません。
今こそ私達大野人は、大野藩士の偉業を顕彰し、後の子に高い志をつないでいかなければならないと思い、本書の再版を決意いたしました。
本書の制作にあたりまして、ご賛同ご支援をくださった方々に、深く感謝を申しあげます。 そして大野丸の存在と、活躍がこれからも広く語り継がれますことを切に願います。
本書によせて
大野商工会議所 会頭 稲山 幹夫
明治維新を迎えた時点で藩の財政が黒字だったのは大塩田を完成させた讃岐高松藩と我が越前大野蕃のたった2藩だけだったと開いております。
「進取の気象」といわれておりますが、面谷鉱山の開発や大野屋の全国展開、洋式帆船・大野丸の建造、藩校明倫館の開設や蘭学の研究、種痘の導入と病院開設 蝦夷地の開拓など行われてきた事業はどれも目をみはるぺきものばかりで、現在の大野市に欠けているものも多々あるのではと感じています。
先人たちは何故このように多岐にわたり豊かな発想でいろんな事業を実行できたのか、その 足跡を今一度学び直して、現代に生きる大野市民として熟考しなければいけないのではないの でしょうか。
あとがき
「魅せる城下町を創造する会」の目的のひとつは、
大野の素晴らしい歴史を、活性化のために見える化することです。
大野市の観光資源であるお城や武家歴敷・寺町など、規楳は小さくても、歴史の裏打ちがあれば、表舞台で全国にアピールできるのではないかと思っています。
第二次世界大戦で敗戦国となった日本、列強大国が対峠する中、どこかの国のように南北に 分断されることもなく、平和を享受できたことは奇跡だと言う人もいます。今起きている、ウクライナの惨状を見ていると、我が国と重なって見えてきます。
ヒノキ新薬という会社が発行する企業文化誌「EPTA(エプタ)」に大野の特集が組まれ、 その中に以下のような文章があります。
大野丸と大野藩のことを端的に表しており、まさに私たちが最も伝えたいことでした。
以下EPTA90号より抜粋
誕生から6年余り、大野丸は短くも卸かしい航跡を残して、幕末を走り抜けて行った。
大野丸が支えた蝦夷開拓は、後の時代にどうつながっているのか。
例えば大野藩が樺太に定住して、北緯50度までを開拓、警備したという事実が後の樺太・千島交換条約(1875年)やポーツマス条約(1905年)に影響を与えたのではないかとも考えられる。実際、日露戦争から第二次世界大戦までの間、北緯50度を境に南樺太は口本の領土だった。そして大野藩の人びとの苦労の足跡は当時の樺太庁より「ウショロ史跡」として指定され、樺太の地に刻まれていたという。
概土史を見直すことによって、若者達に故郷への自信と誇りが生まれたら、私達はとても嬉 しく思います。これがふたつ目の目的です。